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火曜日は少しばかり肌寒い一日で。ガッコは5時間目まであったけど、お昼を過ぎてもあんまり気温は上がらないままだった。お母さんがおやつにと用意してってくれた、ハムカツサンドにぱくつきながら、締め切った窓の向こうにぼんやりと視線を投げる。坊やのお口に上りそうになるフレーズはと言えば、さっきから同じ一言ばかり。
“詰まんねぇのな〜。”
以前はこれでも塾に通っていたのだが、低学年という幼い身であったせいか、大した内容じゃあなくってネ。そんくらいの“予習”なら自分でこなせるっていうようなフォローしかしてくれなかったし、勉強への要領というのか、テクニックっぽいものへもあんまり得られるものは無さそうで。どちらかと言えば…仕事に出ているお母さんが帰ってくる頃合いまでの“暇つぶし”のために足を運んでいたようなもの。そんな程度の動機で通ってた塾だったもんだから、ひょんな切っ掛けで知り合った葉柱のお兄さんと遊ぶ方が、何だかとっても魅力的で楽しかったりするともうもう堪らない。そのまま通ってたって実にならないからなんて生意気は言わず、お母さんには“ごめんなさい”とだけ言って、たったの2カ月で通うのを辞めた妖一くんで。まだ小学校の低学年だから、目に見えての変化や成長はなかなか分かりにくいことだけれど、少なくとも…高校生の英訳の宿題や政経の課題だとか言ってた市場取引の観察レポート、情報学の進級試験とかいう、htemページの作成などなど、さらさらてきぱきと なめらかな手際でこなせるくらいなんだから、塾を辞めたことにもさして影響はないと思われて。(苦笑)
“そんなもんは どうだって良いんだってばよ。”
坊やからすれば、他愛のないところで躓(つまづ)いて唸っては、なかなか宿題を終わらせられない総長さんについつい焦れて。本人のためにならないと判っていながらも…そこは“お子様”だもんだから、早く終わらせて遊んでほしくって。人には得手不得手ってもんがあるんだからってこっちからも言い訳を持ち出しては、宿題や課題に手を貸していたおマセな坊や。そうやって練習時間前の自習時間なんぞを空けさせては、坊やがQBを担当してのパス練だの“悔しかったら捕まえてごらん♪”という鬼ごっこだの、存分に相手をしてもらってた日々だったのにね。土曜はまあまあ…葉柱のお兄さんたちの見送りの後に王城の試合も観れたしで気が紛れたものの、その後の3日間はと言えば、単調でつまらない毎日ばかりが続くこと続くこと。………え? 昨日の上級生相手の立ち回り?
“あんなもん、立ち回りなんて大仰な言い方すんのさえ恥ずかしいような、ささやか過ぎる“ちょっかい”じゃねぇかよ。”
まあねぇ。何たって大人相手の丁々発止を、堂々と受けて立っちゃうような末恐ろしい小悪魔くん。先日も下着泥棒を見事なトラップで取っ捕まえたし、冗談抜きに…突発的な出合い頭ではあったけれど、ピストルが出て来るような真剣本気モードの大立ち回りをさえ、既にやってのけてる大胆不敵なお子様ですしねぇ。大人でさえ翻弄されそうな急転直下の嵐の如き事態に巻き込まれても動じないのは、様々なことへと通じている深い知識と機転を利かせられる柔軟性と落ち着きと、それからそれから、妙に場慣れした度胸と…仔猫の好奇心とをその小さなお胸に目一杯抱えた、お元気元気な坊やだから。そうまで怖いものなしな反動か、際限なき退屈には、逆に殺されそうなほどの苦痛を感じてしまうものならしく、
“………こんな時間帯じゃあ、書き込みも少ないしな。”
自分が管理しているHPのチェックも済んだし、情報の収集にしたところで、こちらもやはり平日の昼間とあってはどこの系列でもそれほどの動きはない。ノートPCをパタリと閉じると、一気に“暇”な空気がのしかかって来て、体の中がむず痒くて仕方がない。
“チビは…エレクトーンのお稽古って言ってたしな。”
そういや、同い年のお友達があんまりいない坊やでもあり、PCを通したメル友はいるが、どの子も上級生ばっかなので今は全員授業中。
“桜庭も授業中か、そうでなきゃ部活か仕事中だろうしな。”
PCの機種名のロゴが大きく型押しされた蓋を細い指先で撫でながら、何かしらおまじないでもかけているような仕草にて、考え事をぼんやりと巡らせる。明日も恐らくは一日中暇なんだろな。大体サ、何だよルイの奴。中間報告がてら、メールくらい寄越せよな。こっちはサ、ダチと楽しくやってるかもって思って、邪魔しちゃいけないだろうって気ぃ遣って、電話も掛けないでやってるのによ。電話だと長距離になるからったって、そんな簡単に痛む財布じゃなかろうによ。あんまり楽しいもんだから、羽根を伸ばしまくってて、俺のことなんか忘れ切ってやがるんかな。そうだよな。こんなガキに毎日毎日付き合わされたって、何も面白かねぇもんだろうよなぁ。良いよ、判ったよ。俺だってルイがいない間は、好き勝手して遊んでやるんだから。
「…えっと。」
ポケットから取り出したのは携帯電話。短縮ボタンから とあるアドレスを呼び出すと、小さな指先で“ぽちぽちぽちっ”と手早くメールを打ち込んで。
“送信…っと。”
別に手の込んだ悪戯を発動させた訳なんかじゃないのにね。ちょっぴりドキドキ、首尾を待つ。お返事は…そうだな、晩になってからだろか。平日だし、仕事があるもんな。そうと思ってポッケにしまいかけた携帯が、軽やかなオルゴールを鳴らしたから、
“………え?”
何だろ、ルイ…からだったらこの着メロじゃない筈だ。スローモーションでもう一度じゃあないけれど、しまいかけた動作を逆回しして、ぱかりと再び開いた液晶には、メール着信の表示が点滅していて、
“早えぇ〜。”
暇なんかな、あいつ。大人相手に失礼千万な言いようをしつつ、それでも手早く開くと…うんうんと内容を確認する。文末に“明日が楽しみだよんvv”なんて書いてたのへ、子供相手に何言ってんだかなと、目許を眇めてちょっぴり呆れたそのタイミング、
「ヨウちゃん、ただいま〜。」
玄関からお母さんの声がして、やっとのこと、坊やのお顔に生気が戻ったようである。
――― お帰り、お母さん。
ただいま。今からご飯の支度するわね。
うんっっ♪
――― あらあら、お風呂、立てといてくれたのね。
うん。暇だったからな。
――― 洗濯物も、取り込んでくれたのね。
だって暇だったから。
あらあらvv
――― ………母ちゃんは偉いよな。
何が?
――― だってサ。
???
――― ………2年も父ちゃんのこと待ってるんだもん。
(くすvv)お母さんにはヨウちゃんがいるもの。
――― んん? 俺がいるから?
全然大変じゃあないし寂しくもないし。
ちょっぴり頬を赤くして、台所に立つお母さんにしがみついたまま、そっか…///////と呟く小さな坊や。こんな姿は さすがに…いたいけなくも愛らしくって。今頃は長崎でやっぱり黄昏てるかもな(笑)お兄さんあたりが見たならば、一発でその胸を撃ち抜かれること請け合いかもです。こらこら
◇
水曜日の授業は半日で終しまい。三年生までの低学年のお子たちが、ひよこたちのような声でてんでに囀(さえず)りながら、ワイワイわさわさと出てくる校門から少し離れた辺りに停まっていたのは。いつぞやもこうして佇んでいた、コンバーチブルのスポーツカー…ではなく。
「何だ? 阿含、車、買い替えたのか?」
「まぁね。」
スポーツワゴンとかいうタイプの車種であり、天井が刳り貫かれたみたいな大きな天窓つきで車内は超明るい。角度によって渋い青が滲むメタリックのボディの傍らには、ドレッドヘアに縁がアニマル柄という細身のサングラスをかけた長身な男性が立っており。しごく当たり前な足取りで寄って来た、金髪頭の坊やの背中からランドセルを降ろしてやって、さぁさ どうぞと、広々した後部座席へ淑女をエスコートするかのように誘(いざな)えば、
「あ………エロ雑誌見っけ♪」
「こらこら、驚かすな。」
坊やからのお誘いのメールがあった昨夜のうちに、車ごと傾けるほどの勢いで大掃除したんだぜと、運転席からの返事があって。だから、そんな疚しいものなんかが残ってる筈がないと言いたかったらしき、カリスマ歯科医師さんへ、
「じゃあ掃除しなかったら載ってたんだな。」
「だってぇ〜♪ 俺って、まだ全然枯れてないしぃ。」
決して“子供扱い”してのあやすような口調ではなく、対等な相手へふざけかかるような言いようだと判るから、
「素人さんを泣かすような真似だけは止めとけよ?」
「あ、酷いのな。」
そのっくらいの分別はありますよと。幾つの子を相手に話している話題なのかが判っているやらいないやら、話を続けつつの手慣れた動作で対向車を伺い、なめらかな始動で車を走行態勢へ持ってく阿含であり、
――― どこ、連れてってくれるんだ?
芸がなくて申し訳ないけど、横浜はどうよ?
知り合いのカフェテラスが夕方からリニューアルオープンするらしくてな、オープニングセレモニーに綺麗どころのゲストが欲しいんだってよ…と続けつつ、
“今日だけは“港町”って要素だと鬼門になるかな?”
先を読んで…少々危ぶんだものの、
「う〜ん。晩までに帰れるか?」
「任〜かせてvv」
なら構わないと、結構あっさりOKが出た。
“………ふ〜ん?”
判りやすくへこまれても癪だったろうけれど、平然としていられるのも…案外と。余計なこと、勝手に勘ぐってしまいそうで、結局は落ち着けず、胸の底で何かがチカリとその存在を主張する。例の白ランのお兄さんが長崎への修学旅行で不在だって情報は桜庭からとっくに得ており、目の前のこのおチビさん本人を見ていて これまで一度も思わなかったことを…修学旅行なんてもんに出掛ける相手が恋敵かよと、いかに自分が大人げないかを思い知り、一瞬 素に戻ったりもしたけれど。
“いかん、いかん。”
自分の信条やポリシーの飽くなき追及には、何よりも“マイペース”が必要不可欠。世間とかモラルとか、そういったものへもまだ当分は“天の邪鬼”でいたいから。いい意味でも悪い意味でも、実年齢と向かい合うよに我に返るにはまだ早い。
「♪♪♪〜♪」
広々と開放感いっぱいな明るいサルーンにて、ご機嫌そうな鼻歌まで出ている王子様だと気がついて、
「上ばっか見上げてっと、口が開いて喉が渇くぞ?」
からかうように忠告すれば、
「備えあり、なんだろ?」
間髪入れず、すかさず返る応対の鋭いことよ。さすがさすがとククッと笑い、
「ご評価、痛み入りますコトで。」
お道化て返し、クーラーボックスの在り処を教えて差し上げて。憎まれ混じりの会話つきという港までのドライブを、堪能することにした歯科医師さんでありました。
◇
初夏の陽気にあふれる横浜は、時折生暖かい潮風の吹き抜ける中、気の早い夏支度をした若者たちが多数闊歩していて。萌え初めの緑と拮抗していや映える、陽に晒された白い柵が海側を縁取る山下公園には、お馴染みのシンボル、氷川丸が係留されてる。
「あ〜ごん、大道芸やってるぞっ。」
「あんま見境なく走んなよ? 大きいのにぶつかると弾き飛ばされる。」
そんなドジは踏まないよ〜だと、あっかんべをして駆けてく小さな背中を、苦笑混じりに見送る青年。掴みどころがないにも関わらず、妙に目立つ組み合わせの二人連れには、周囲からも視線が自然と集まる。いかにも小さな、小学生だろう男の子は、当地には珍しくもない、外人の子供かそれともハーフか。明るいい色合いの金の髪を潮風になぶらせながら、たかたか軽快に駆け回っていて。陽に煌めく髪色や抜けるような白い肌は珍しくもないけれど、よくよく見やれば…繊細、且つ印象的な造作が、ハッとするほどに愛らしい。間違っても西欧人ではないと判る、やわらかで優しい線によって構成された面差しは、唯一鋭い力みに張った金茶の目許の鋭利な力強ささえ、愛くるしいというキュートさの中へと一緒くたに包み込んでしまう、何とも可憐な佇まい。手折られそうなほどの四肢が、姿の脆弱さという儚い魅惑を振り撒いては、女子の方々の視線を自然と集めてしようがない。そんな坊やのお連れはと見れば、こちらはいかにもな遊び人風。ストーンウォッシュのGパンは随分と細身で、意外な高さにある腰からしゅっと伸びる長い脚へと、吸いつくようにぴったり馴染んでおり。鎖骨が覗くアロハ襟のシルクのシャツに、着慣らされたジャケットを羽織って無造作に腕まくりというざっかけないいで立ちが、されどギリギリでだらしなくないのは、動作の切れが小気味いいからか。適当に折られた袖口から突き出ている腕の、実は筋骨頼もしいところが、されど…さしたる注意を寄せないのも、肩から力を抜き切ってぺたりぺたりと歩く様子が、過ぎるほどに無造作だからだったけれど、
「…見てみなよ、あの二人。」
人が行き来する往来を兼ねた広場を通り抜けて差しかかったのは、垂木の屋根を挙げたベンチや、丘へ連なる斜面と公園とを区切る柵に腰掛けた二人連れが目につく辺り。昔風の言い方で“C調”そうなアベックが、何を顕示したいのか声高にきゃっきゃと騒いでいる声がして。下らない会話だろうに声高なせいで耳につくのがまた不快という、どうしようもない公害タイプのカップルが、ちゃらちゃらじゃれ合っているのが視界の隅に入ったその途端、男の方の声がするりと届いて。それに続いたのがけたたましい女の笑い声。
「やーだ。親子みたいだけど親子じゃないみたいな?」
サングラスの隅でちらっと伺えば、間違いなくこちらを見やっての会話らしい。
「自分の子にしたっても、あんな小さい子をデートスポットで連れ回してて、なんか楽しいのかしら。」
「さぁなぁ。案外…親子じゃなくって“恋人”なんかも知れねぇぜ?」
「きゃーっ、やだっ!」
「キモいよなぁっ。」
「ほらあの、変質者ってやつ?」
………………………………………。
周囲の視線や空気を読めば、どっちがまともでどっちがモラルを外れた無礼かは歴然としてもいる。きっと、彼らが此処へ来るまでのずっと、同じような騒音公害を撒き散らかしていた迷惑な輩たちだったに違いない。そうまで白黒が明白・明確であっても、それでもね? 真のお馬鹿に馬鹿扱いされるのって、存外 気持ちに重いってご存じですか?
「………阿含、怒んないのか?」
たかたかと傍らまで駆け戻って来た坊やが、わざとらしい野次の的になって甘んじているお兄さんを足元から見上げて聞いた。自分の小生意気な口利きや我儘には、辛抱強く振り回されてくれる彼だけれど、付き合いが長い坊やとしては…それ以外の彼も良く良く知っているからね。謂れのない悪口なんかへ、黙ってるこたないじゃんかと暗に言いたいらしい妖一坊やへ、
「ん〜、別に構わないよ。」
妙に間延びしたお答えだったのが、相手へも届いたらしくって。途端に“何あれ、間抜け〜”と笑い声が立ったものの、
「だってほら、カワイソウじゃない。自分にネタがないもんだから、周りを貶めなきゃ間が保てない、芸無し能無しな奴らなワケでしょ?」
――― おお?
彼のよく通る声は当然周囲にもきれいに広がり、それへと呼応したとしか思えない“間”のよさで、あちこちから クスクスケラケラという隠しもしない含み笑いが多数長々と洩れ聞こえて来る。そこへの、
「そんな貧相な連中の相手したっても、しょーがないしー。」
お道化たまんまの とどめの一言に。周囲からの笑い声も一際濃くなって、形勢はあっさりと逆転した模様。あくまでも眼下の坊やへという話しかけだったので、ねぇと首を傾げて見せたシメに、妖一くんもしょっぱそうな苦笑を見せたが、
「…んのヤロっ!」
下衆ほど実はコンプレックスの塊りだから、自分への攻勢には敏感なのよね。それとも罵倒慣れしてなかったクチかなぁ。そりゃあ素晴らしい反射でカノジョの横から飛び出して来て、一応は心得があるらしい拳をぶん回して来た野次り野郎だったものだから。
「きゃっ!」
「………っ☆」
周囲の皆さん、ヒヤッとして下さったみたいだけれど。背けた視線を戻してみれば、そこで展開されていたのは…またまた予想を裏切る、意外な光景。今時の伸び伸びとした育て方をしている子供を連れた、いかにもお若い“主夫の人”風のお兄さんだったのにね。どうやって躱して、どうやって回り込んだのか。突っ込んで来た暴漢の“背後”へと立っていて、しかもしっかりとした“羽交い締め”がロックオンされている。ついさっきまでは飄々として見えていたのに、相手の腕の根元へ搦めた、彼の腕の雄々しさはどうだろう。鞣した革のような、丈夫そうな張りのある肌の下。がっきと堅そうな筋骨が撓う、格闘家のような腕や胸板が、動いてこそ、機能してこそ、その姿や気配を現したらしくって。
「先に手ぇかけたのはそっちだ。それは判ってるよなぁ?」
潮風に躍ったドレッドの房が幾条か、精悍な面差しの顔を横切って。シニカルな笑みを張りつけた口許が見えないと、意外なくらいに不可思議な表情。笑ってもないが怒ってもいない。なのに、合わせた視線が剥がせない。サングラスを外せば現れる、狙った獲物へ金縛りをかける、猛禽の眸。
「…おっと、下手に動くと怖いことが起こるぜ?」
脱臼って知ってるか? 関節を無理から外したりズラしたりされるこった。折れる訳じゃあないが、動かすと死ぬほどの痛みが襲って来てよ、しかも戻すのに、同じくらい痛い目を見なきゃあなんね。
「ただの脅しだって思うんなら、ご遠慮なく。どうせ俺が痛い訳じゃないしサ。」
くつくつと含み笑い。言いながら、ぐっと腕の就縛を容赦なく引き絞られれば、ホントに肩や腕へと激痛が走る。肋骨がメキメキと鳴る。
「ひいぃっっ!」
特に脅しているような口調じゃあない。世間話みたいに穏やかな声音の和やかな喋り方。まるで、白髪が見つかったから抜いてあげようかと言ってるような気さくさであり。周囲の初夏の空気にも違和感なく溶け込んでいることが、そんな穏健さが却って…不気味。
“な、なんだよっ、こいつっ!”
真っ当な正義漢なら謝れば済むが、最悪の相手を実は怒らせたのだと気がついた時にはもう遅い。何をどうすれば良いのかさえ判らず、パニックを起こしている相手だのに、
“…大人げない奴。”
きっとあれだ。ごめんなさいって言うまで離さないつもりだよ、この歯医者さん。子供だったなら、すぐに判るし、自然と口を衝いて出る言い回しでもあろうけど。こんな中途半端に大人になりかけの奴で、しかも恐慌状態に陥ってるからね。まずは言うまいなと、坊やにだって判ること。………そう。まずは言うまいなと思うことをゴールの“当たり”に構えてる、当人はこれで優しいお仕置きのつもりの…加減を知らぬ恐ろしい奴。兄の雲水が後継者となった合気道の本山道場で、100年に一人の天才とまで呼ばれている、実は…鬼のように情け知らずの凄腕格闘家。それがこの、阿含という男の真の顔。
「…っ、ひぃっ!」
ますます腕を締め上げられたか、男が情けない声を上げた。じりじりと少しずつ痛ぶって苛める腹だなと見越した途端、あんまり楽しいアトラクションではないよなとも思ったので、
「もう良いだろ、阿含。それ以上絞めたら、間違いなく外れる。」
男が悶えんのなんて気持ち悪いから見たくねぇしと付け足せば、上背のあるお兄さん、案外あっさり手を放し、
「この子に感謝しなよ? 俺だけだったら、こんな寛大じゃないからサ。」
ニヤリと笑ったとほぼ同時、間近いどこかから………ぱきっと乾いた音がして。
「ヒイィィィッッ!!!」
間違いなくどっかが折れたと思ったか。手を放されたと同時、へたり込むように地べたへ尻餅をついていたものが、どこに力を入れたやら、珍妙な動作で何とか立ち上がると、奇声を発しながら駆け出している。
「あっ、待ってよっ、ねぇっっ!」
じゃれてた彼女も置き去りという一目散ぶりに、やっぱり周囲はくすくす笑うばかり。さっきの音の正体はといえば、
「あ〜あ、サングラス、割れちったよ。」
気に入ってたのになと言う割に、わざと…踏みやすいように足元へ取り落としていたに違いなく。ゴミの放置はいけないよなと、一応は拾ってポケットへ収め、別に英雄を気取りたくはないからと、足元に寄って来ていた坊やをひょいっと抱え上げると、何事もなかったかのように、すたすた、その場を後にする。
「…なあ。」
「んん?」
「何で最初は知らん顔してた?」
「ん〜。」
「あんな言いたい放題、昔だったら最初の一言だけで撃沈さしてたのによ。」
「よく覚えてんのね。」
くすすと笑ったサングラスのないお顔は、さっきとは打って変わって柔らかな印象。
「俺、可愛い子に怖い想いさせんの嫌いだしー。」
だからね、我慢しようと思ったのと、殊勝な言葉を続ける彼へ、
「ウソばっか。歯医者のくせによ。」
「だから〜。俺は“痛くない歯医者”だって、いつも言ってるだろうがよ。」
その点へだけは執拗に認めたがらぬ困った坊や。人を暴力の男みたいに言わないでよねーと、あくまでも冗談めかして言い返したものの、
「あの兄ちゃんだって、ガンたれたりするんだろ?」
いかにもな不良。ああいう手合いは、何でもいいから言い掛かりをつけて回りたいもの。強さを誇示したくてしょうがないから、誰彼かまわず挑発したなと噛みついて、自分のペースで蹂躙凌駕し、自分の膝下に跪(ひざまづ)かせてしまわないと落ち着かない。若い牡の威勢や威嚇ってのは、いつの時代も変わらない。生え変わりの歯がむず痒いから、余ってる血潮が煩いから。じっとしてなんかいられなくって、牙を剥き、喉を嗄らして吠えたおす。それと比べりゃまだマシだと、話を持って行きたかったのだけれども、
「ん〜ん。ルイはそういうのはしねぇぞ。」
……………はい?
けろりと言ってのけた坊やを見下ろせば。特に自慢でもなさそうな、こちらさんも素のお顔。
「俺と一緒にいない時のことまでは知らないけど、あんまそういうのはしないぞ?」
「ほほぉ?」
おやや、意外な雲行きかも。これは話を振るんじゃなかったかなと、内心少々危ぶんでいると、
「まあ…俺といる時は、俺からの攻撃を切り返すので一杯一杯だからかも知んないけどな。」
にししと笑った坊やのお顔へ、
“それってもしかして…よそ見はしねぇって惚気かよ。”
嬉しそうな頬の張りから、口許だけの作り笑いや居丈高な笑いじゃあないことは明白であり。
「どんなに悪戯しようと生意気言おうと、無理言って呼び出そうと、一応は憎まれとか説教とか言うんだけれど、必ずフォローしてくれてさ。」
その説教がまた煩いんだよなと言いながら、けれど、もしもし? やっぱり嬉しそうなお顔なんですけれど。
「阿含とか雲水とかムサシとかはサ。俺が生まれた時から一緒にいて、だから色々慣れてるじゃんか。」
そうですね、その小生意気なところなんかは、お兄さんが助長した節もあるくらいですしね。
「でもサ、ルイはやっと1年目だってのにサ。辛抱強く付き合ってくれるから…サ。」
あーっクソっ。何 語ってんだろ、俺…と。今になって恥ずかしくなったか、抱えられた腕の中、むいむいと暴れ始める。降ろせと言いたい坊やであるらしく、苦笑混じり、ハイハイと従ってやれば、降ろした先、こっちの長い脚へとあらためてぎゅうっとしがみつく。今の坊やこそ、何かが体の中で暴れ始めてしまい、いぃ〜〜っとなってて、居ても立っても居られないらしく、
「あーあー、判ったから…こらこら蹴るな、咬むなって。」
選りにも選って、あの兄ちゃんのことで八つ当たりされてもなと、苦笑半分。照れ隠しに俯いたままな、金色の髪がもぞもぞしているのを見下ろしてやり、
「明日、帰って来るんだろ?」
「………うん。」
「疲れてたって構やしない、目一杯甘えてやんな。」
「…甘えたりなんかしねぇもん。」
暴れるのはやめたけれど。傍らにあったアイスキャンデーの出店のアクリル看板、写り込んでる横顔をちらと盗み見やれば…不機嫌そうに膨れて、むいと下唇を出している。
「甘えんのは、何もガキだけの特権ってんじゃねぇんだぜ?」
「………。」
「媚び諂(へつら)いと一緒で、立場が弱いもんがすることだって思ってんだろ。」
確かに一種の馴れ合いかもしれないし、油断丸出しだって事には違いないけど、自信があるならそれは別物。場合によっては、相手を和ませ、警戒なく遊ばせてやるための“降参”でもあり。ともすれば“余裕”がなくっちゃ出来ないフェイク。
“ま、そこまで極めた甘えは、こいつにゃ似合わないかもしれないが。”
手段を選ばない要領のよさに誤魔化されそうにもなるけれど、彼の本質は…意外なことに、権高くて頑迷な、融通が利かない“清廉さ”だ。鈍感で大雑把な風に見せといて、強引さや挑発を個性に立て回し、せいぜい強がっているのも、それらを辛うじて支える鋭利な気性が実は危なっかしいまでに脆いから。小さきものの愛らしさや健気な一途さをちゃんと理解し、支えたいと思う優しい子。だからこそ強くなりたいと望む、実はあの頑迷な進と張り合うかもしれない、一本気なところのある子。そんな彼の強がりや背伸びを間近で支えてやれるのは。この子が心から安心して甘えかかれるのは。それを“対等だから”と評するのは…もしかしたらば相手が怒るかもしれないけれど。子供扱いされない間柄だと安心し、伸び伸びと肩を張らずに振る舞える、あのお兄さんしかいないのかも。
「…さてと。そろそろカフェまで行くかね。」
「おうっ♪」
セレモニーで花束を店長に渡してやってほしいんだって。そしたら、後のパーティーでは食べ放題だし、その席には“川崎○○○○”のLBとQBが招待されてる。えっ? 凄げぇーっ!! 俺、そこのチームのゲーム、一番いっぱい観に行ってんだぜ? QBって安西さんか? 高峰さんの方か? 一気にミーハーになった坊やに苦笑し、急げと飛びつかれて抱っこのし直し。現金な坊やもこれで明日までは、退屈や寂しいのを一切忘れて過ごせそうです。
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*阿含さんと雲水さん、お誕生日おめでとですvv |